赤い靴のこと
- utanokodomo
- 2019年9月27日
- 読了時間: 3分
赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに連れられていっちゃった
こんな歌詞から始まる赤い靴。
小さな頃から
この曲を聴くたびに
なんて怖い話なんだろう
といつも思っていました。
それはもう夢に出てきてしまうくらい
想像すると怖かったなぁ。
どうして連れてかれちゃったの? 誘拐されちゃったの?
書いた人は目撃者なの?
お父さんお母さんは知ってるの?
たくさんの疑問が浮かぶ曲です。
すこし赤い靴にまつわる話があるのか調べてみたら、
諸説あるようですがどうやら「定説」があるようです。
以下wiki 引用
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歌詞は、実話を題材にして書かれたという話が定説化していた。
静岡県清水市有渡郡不二見村(現在の静岡市清水区宮加三)出身の岩崎かよの娘・佐野きみ(1902年(明治35年)7月15日 - 1911年(明治44年)9月15日)がその赤い靴を履いていた少女のモデルとされた。その「定説」は次のとおりである。
岩崎かよは未婚の母としてきみを育てていたが、北海道に渡り、鈴木志郎と結婚する。きみが満3歳の時、鈴木夫妻は、社会主義運動の一環として当時注目されていた北海道の平民農場へ入植する。
しかし、開拓生活の厳しさもあり、かよは義父・佐野安吉の仲介により、娘・きみの養育をアメリカ人宣教師のヒュエット夫妻に託すことにした。 やがてヒュエット夫妻は本国に帰る事になるが、その時きみは結核に冒されており、アメリカに連れて行く事が出来ず、そのまま東京・麻布の鳥居坂教会の孤児院「永坂孤女院」に預けられてしまう。
きみは孤児院で母親に会うこともできず、9歳で亡くなったという。母親のかよは、きみはヒュエット夫妻と一緒にアメリカに渡ったものと思いこんでいて、きみが東京の孤児院で結核で亡くなったことは知らされないまま、一生を過ごした。
1903年(明治36年)に社会主義詩人として出発していた野口雨情は、その後、1907年(明治40年)、札幌市の新聞社に勤めていたときに、同僚の鈴木志郎やその妻のかよと親交を深め、「かよの娘のきみが宣教師に連れられて渡米した」という話をかよから聞かされた。
乳飲み子の長女のぶ(きみには異父妹)を抱えて、鈴木夫妻は開拓生活に挫折していた。じつはこの時点では、きみは鳥居坂教会の孤児院にいたが、かよはそのことを知らない。その後、1921年(大正10年)に、この話を題材にして『赤い靴』が野口雨情によって作詞され、1922年(大正11年)に本居長世作曲で童謡になった。
1973年(昭和48年)、きみの異父妹・岡その(鈴木志郎とかよの三女)が、新聞に「私の姉は『赤い靴』の女の子」と投書。この記事に注目した北海道テレビ記者の菊地寛が調査を開始した。菊地は5年にわたる取材ののち、上記の事実を確認し、1978年(昭和53年)に『ドキュメント・赤い靴はいてた女の子』というドキュメンタリー番組を北海道テレビで制作・放送した。その後、菊地は、ノンフィクション小説『赤い靴はいてた女の子』(現代評論社刊)を1979年(昭和54年)に発表、この本の記述が「定説」として定着したとされ
る。
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上記を読んでこんな悲しい話が当時の日本にはあったのか。。。
きみちゃんが気の毒すぎる。。。
生きてゆくことが大変すぎる。。。。
と様々な氣持ちが駆け巡りました。
ただこの定説については否定する方もいたり、
また別のメッセージが赤い靴の題材になっている
という説もあるようです。
それにしても赤い靴という短い曲に、
このような話や論争が起こること自体が
この歌のすごいところでもありますね。
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